100年インタビュー企画
「私とHATGO井仙」
Interviews “HATGO ISEN and I”

1925-2025
井仙100年の歴史

井口会長が語る
井仙の歴史

井口会長

会長の井口智晴さんに聞いた「あのとき」

初代が開いた旅館に生まれ、3代目として「ビューホテルいせん」にリニューアルした現会長の井口智晴さんに、井仙の歴史を聞いた。忘れられないできごと、ターニングポイントとなったあのとき。そして次世代へのメッセージとは。

旅館に生まれ
スキーに親しんだ幼い頃

---会長が生まれた1941(昭和16年)には、井口家は既に旅館を経営していたそうですね。

井口智晴会長(以下井口会長) 初代が駅の東口に宿を開いたのが1925(大正14)年。その頃はまだ、JR湯沢駅に西口は無かった。ところがしばらくして、今の西口そばの西山地区で温泉が出た。「駅の反対側にも出口ができるに違いない」。初代が見込んで宿を移転したと聞いています。

---「いせん旅館」の誕生ですね。

井口会長 移転したのは私が小学校に入る前。今も井仙のあるここから学校に通って、道路では近所の子らとキャッチボールをして遊びました。そのくらい車の往来がなくのどかだった。

---100周年イベントのスキー大会では、83歳にして軽快な滑りを披露されていましたが、スキーを始めたのもその頃ですか?

井口会長 2代目にあたる父真司がスキーを湯沢に広めようと精力的に活動していて、自身も湯沢最古の指導員になっていた。その影響から、6人兄弟のうち5人の男子がみんなスキーをやっていて、4人が指導員の免許も持っているくらい。

---常連のお客さんからも、会長や会長の弟さんらと小さい頃からスキーに通ったと聞きました。今でもそのつながりがあって、井仙に泊まってはスキーに行っていると。

井口会長 スキーのおかげで人との和が広がった。それは間違いないですね。50歳になっても「まだ続けたい」と足腰を鍛えるべくゴルフを始めたほど。あれがスキーのセカンドキャリアのスタートかな。無理をしないで自分のペースで滑ろうと。さすがにそろそろ引退ですが、50代60代はまだまだ若い。いろんな挑戦ができるはずです。

6人兄弟の4男坊が
旅館を継いで

---会長が「いせん旅館」を継いだのは1960年代とか。

井口会長 昭和44年でしたから1969年ですか。四男坊でしたから、まったく継ぐ気がなかった。だから高校卒業後は東京に行ってサラリーマンをしていました。

---それがどうして?

井口会長 100年の歴史を振り返っても、あれがいせん最大の危機だったと思うんですが、会社が乗っ取られたんです。いせんは1953(昭和28)年、旅館を3階建てにすると同時に法人化していました。それが乗っ取られた。次男が東京の弁護士に依頼し、東京で働いていた私が二人のつなぎ役をしました。事件は4年ほどかけて解決したわけなんですが、父が1964(昭和39)年に亡くなっていて継ぐ人がいなかった。それで私にお鉢が回ってきたというか。

---「自分がやろう」となったんですね。

井口会長 ほかにやる人がいなかった。ただ「何とかしよう」「しないと」という気持ちはあった。1969(昭和44)年に継いで3年後には結婚。5年後には現在の「SAKURA」のある棟を増築。そして1985(昭和60)年には本館を鉄筋4階建てに建て替え、名前も「ビューホテルいせん」と変えて再出発しました。

---当時は鉄筋建てが珍しかったと聞いています。踏み切ったのはどうしてですか?

井口会長 昭和57(1982)年に上越新幹線が開通し、スキーブームやバブル景気が追い風になってどんどんお客さんが増えていった。客室を増やしたかったというのが第一。ただ、仕切りである壁を簡易にして、使い方をいかようにも変更できるようにした。時代は変わるからね。今思えば、あのおかげで「HATAGO井仙」の全面リニューアルが可能になった。

---新幹線が開通したのをきっかけに、西口ができたんですね。

井口会長 驚いたことに出口が旅館の目の前にできることになった。当初はもう少し下りの方にできる予定でしたが、変更された。「せっかくだから駅前という立地を活かそう」。そう考えて同窓会の誘客に力を入れ始めた。このプランが当たって会社は起死回生しました。

「続いてくれればいい」。
それが今の気持ち

---旅館に生まれ、36年間社長を務め、その後会長に。人生の83年が井仙とともにある会長ですが、これからの井仙にはどんな思いを持っていますか?

井口会長 これからも続けていけるといい、それが一番ですね。自分が心構えなく、まっさらな気持ちで入ったこともあって、いわゆる"家業"とか"引き継ぐべき"いう意識がさほど強くないんです。だから智裕にも、小さい頃からあれこれ言わず、湯沢に戻ってきてからただ1回「やるかやらないか」と聞いただけ。「もし断られたら売ればいいか」くらいに思っていました。

---それでも今年、100年を迎えました。

井口会長 今になってみると、西山地区で創業家が残っているのはうちくらいじゃないかな。とにかく「継続」は難しい。うちとて経営危機もあったから、続けることの大変さは身に染みています。だからただ一つ「続いてくれればいい」。それだけです。